2024年6月1日、今日からブログを書くことにした。タイトルは「心情を綴る」だ。現在抱いている心情の種々を書き綴ることで、現時点での新たな気付きに出会えたり、あるいはそのヒントを得られるかもしれないという期待を込めて。自身を顧みる要素として、ブログというツールを選択した。
そして近い将来、このブログが過去を振り返るツールとなり、未来を生きている自分の豊富な糧となり飛躍のための経験に繋げるために。サブドメインは「feel」とした。心情を広義的に捉えつつ、なにも後ほど記載する負の感情のみに囚われる必要もないよね、という前向きな気持ちも含めてのものだ。
心情を綴る、とした理由。唯一にして最たる理由は、今現在、自身が強く持とうと心掛けている「前向き(上昇志向)であろうとする意志」がある出来事により、自分史の中でも1・2位を争うほどの「負の感情」由来の何かでせき止められていることを、日々実感しているからだ。
冒頭でも書いたとおり、今現在の心情を、日々書き綴るようにする。過去のことも、そして巻き起こることも含めて。一体、何が起こったのか。これから何が起こるのか。起こさなければいけないことも、経過と共に書くことができるように、立て直していかなければいけない。
ようやく先のことを少しは考えられるようにはなってきたが、やはりまだまだ負の感情に汚染されていることを、自身の心は訴えてくる。こうした事象と、今回はどれくらい付き合うことになるのだろうか。自身がもっとも忌み嫌っている、負の感情…。
負の感情が人の身体にもたらす影響は、強く、そして大きい。ここ2週間くらいだろうか。身体に対しても不調のサインを大きく示してくるくらいには、影響を及ぼしている。辛く苦しい時の始まりを告げているかのようだ。5月15日に起こった出来事が、きっかけなのだろうか…。
思うに、もっと前からだったのかもしれない。出来事ではなく自身が抱いていた感情に目を向けて振り返ってみよう。いつからか漠然とした不安を抱いていた。その不安をもたらす事象として、決定的な何かがあったわけではない、というのも自覚している。
何が原因となったのだろうか。少なくとも2つ以上、あるいはより分析してみれば幾つもの要素が出てくることも想像に容易い。あれもこれも…。一旦、この記事で文章に表現することは後回しにするが、思い当たる節は幾つか浮かび上がる。そう、あれも…これも…。
いつからだったろうか。5月15日の出来事は、単なるトリガーに過ぎないのではないか。そもそもトリガー足り得るほどの出来事だったのだろうか。当日のことを思い出せば、中々に衝撃的な事態であったことは、確かなものだと言えるかもしれない。関係者たちにとってみても。
それまでも、不信…という言葉で表現できるような、何らかの感情を自身の心は抱いていたように思う。論理的に言えば頭でも、同様の考察をしていたハズだ。自分ならそうした在り方に至ろうとするハズなのだから。頭も心も、不信に浸食されつつあったということか。
それからも、疑念…という言葉が見事に当てはまる考察と心情を、自分は持ち合わせてしまっている。こんなものはでき得るなら持ち合わせたくない。日々、自身の心が黒く重い何かで塗り固められていく。自分の場合、やはり心が先でその後頭や体に影響を及ぼす、ということが再確認できた。
こうして文章にしてみると、現時点での考察では、5月15日に起こった出来事がトリガー足り得るのかもしれない気がしてきた。そうして、それに付随して後発した出来事も、ジワジワと精神力をすり減らす毒のような、目には見えないが確かにそこにあるもの、として捉えざるを得ないようだ。
負の感情。場面が変わればマイナスな要素とも表現しているこの言葉。これらがもたらす暗闇への誘いは、計り知れない、そして底知れない、絶大なエネルギーを秘めている。秘めているという言葉は正しくないのかもしれない。往々にして牙を向けて襲い掛かってくるのを如実に体感するのだから。
果たしてこの感情の往き先は、いつ、どこへ向かうことになるのだろうか。なるべくなら、誰も、何も存在しない方向を射程として、遥か彼方へ追いやることができればいいのにな、と思う。自分由来で誰かを傷付けたり、何かをよろしくない方向に引っ張ってしまうのは嫌だ。
当然、そうしたことの対象は自身に対しても、だ。己の人生や、抱いている目的の足枷となってしまうような事態、さらに言えば岐路となってしまわぬように。今は辛く苦しくても、長い目で見れば、人生全体で捉えれば、貴重な経験であった、プラスであったと、そう思えるように。
1つテクニカルな事項として、このブログは非公開とし、インターネット上に公開されることはない設定としている。記事の内容がとても公開できるようなものではないこと、関係者の実名や、実名ではなくても読む人によっては人物を特定できるであろう内容を記載することが理由だ。
実名については、出さなければいいと単純に考えることもできるが、いつかこのブログを振り返ったときの曖昧な回想回避や、あるいは何らかの事象が発生した際のエビデンスとして示すことができるよう、実名にて記載しておきたい思惑があることも書いておく。
なんにせよ、こうしてまた、人生においてブログを書く機会がやってきた。この行為そのものは、全く悪いことではない。文章を書くよい練習にもなるし、キーボードを入力するために手を動かすことが、脳に何らかの活性をもたらすかもしれない。冒頭に書いたような期待も込める。
残念なのは、ブログ開設のきっかけとなった大枠が「負の感情」である、ということだ。こればかりは仕方がない、と捉えよう。捉えきる、と自分に言い聞かせる。こうしたきっかけも、自身への戒めや経験体験になり得るのだから。人生、いいことばかりではないのだから。
